News!(公式ブログ) | | 令和3年04月01日更新 |
<令和2年12月05&06日「ふれあい渡里まつり」> |
・渡里住民の会が主催する第32回「ちっちゃなふれあい渡里まつり」が、12月05日(土)午後1時から3時までと、翌06日( |
日)の午前9時から午後3時までのスケジュールで開催されました。5日の来場者が107人と6日は207人という2日間の合計が |
314人でしたから、例年開催してきたものと比較すると一桁少ない数字となりました。しかし、今後も続くであろう「コロナ渦」の |
影響の中での手探り状態だったこともあり、現時点で考えられる対策を行った上での開催をできたことが最大の成果となりました。・ |
係員を含む関係者も2日間での延べ人数が134人に達したことで、地域の協力諸団体によるバックアップを得ることができました。 |
地域内にある渡里小学校、水戸第五中学校、茨城大学土屋ゼミからは、児童や生徒、学生らの制作した作品や発表もしていただき、日 |
頃は関係者以外は目にすることのできない世界を見ることもできました。本日最後のスケジュールとなった全員参加による「みんなで |
“ビンゴ”」は、快晴の空の下で来場者の皆さんと関係者が一緒になって楽しむことができました。・・・・・・・・・・・・・・・ |
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<令和元年12月08日(日)「ふれあい渡里まつり」> |
・令和元年12月08日(日)10時より「ふれあい渡里まつり」が開催されました。前日の雨から天気も回復し、「わたりふれあい |
太鼓」による振れ太鼓で地域住民が楽しみにしていた一大イベントが幕を開けました。本年は水戸市から消防、危機管理、警察、水道 |
、ごみ対策の各部署と北部支援センターの協力もあり、本物のパトカーやはしご消防車までもが集結しました。例年の模擬店や展示発 |
表という楽しいお祭りにプラスして、「あんしん」な暮らしに繋がる展示コーナーなども同時開催となりました。メインステージであ |
るトラック特設ステージでは、ベンチャーズサウンドの「バンブルビート」や水戸市のプロバスケットチームである「ロボッツ」のチ |
アリーダと、チアリーダージュニアによるパフォーマンスで一気に湧きました。渡里小学校グラウンドと体育館で行われた催しも午後 |
2時からの「お楽しみ抽選会」となり、今年も多くの当たりくじで皆さんに喜んでいただいたことで笑顔がいっぱいの「ふれあい渡里 |
まつり」となりました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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<平成30年度 渡里住民の会 総会> |
本日5月19日10時より渡里市民センター ホールにて、「渡里住民の会」の平成30年度定期総会が開かれました。会長の挨拶 |
で始まり、市民憲章唱和と市歌斉唱に続いて来賓の挨拶後議事に入りました。報告第1号、報告第2号、監査報告、議案第1号、議案 |
第2号、議案第3号、議案第4号と続いて、平成30年度の定期総会も無事終了となりました。終了後は場所を内原町の「すぎのや」 |
に変えて、長きに渡り地域自治会を支えていただいた3名の同士の退任と、新たに加わったメンバーとの歓送迎会を行いました。日頃 |
の活動と違った雰囲気の中で、和気藹々の2時間を存分に楽しむことが出来、普段とは違った交流が明日の自治会活動のエネルギーと |
なったようです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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<平成30年12月2日 ふれあい渡里まつり> |
12月2日(日)午前9時55分渡里小学校の校庭に設けられたトラックステージ前にて、渡里ふれあい太鼓のメンバーによる「ふ |
れ太鼓」を合図に平成30年のまつりがスタートしました。昨年同様に体育館内でも展示発表会が行われ、今年は五中の美術部と家政 |
部の展示コーナーが加わり、代わって渡里小の絵画展示が西門入口からの通路部分へと移動しました。屋外では恒例となっているトラ |
ックステージと模擬店テントが並び、今年度から新設された「防災安全部」の企画として消防本部よりはしご車と消火体験コーナー、 |
更に水戸市防災安全課の協力による安全に関する啓もう活動が行われました。会長あいさつ・開会宣言の後は新調の太鼓による響き渡 |
る「渡里ふれあい太鼓」、「歌謡愛好会」、「歌謡クラブ」、「五中吹奏楽部」と続き、12時よりセレモニーが行われました。本年 |
の目玉企画である口笛世界一の「加藤万里奈」さんと啓明高校ジャズバンドによるコラボで盛り上がり、その後もガールズダンスチー |
ムGRB〜ひまわりヒップホップ〜茨城大学大道芸サークルによる演技と続きました。午後2時からは皆さんが楽しみにしていた恒例 |
の「お楽しみ抽選会」が始まり、大槻勢二会長と小泉康二水戸市議会議員の名コンビによる当選番号の読み上げがある度に大歓声が上 |
がりました。倍増した当たりくじでにっこりの当選者が賞品をゲットし、楽しかった平成30年の「ふれあい渡里まつり」も終了とな |
り多くの皆さんが賞品を手に家路へと急ぎました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ |
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<渡里地区の変遷> | | <台渡村詳細> |
袴塚村より分村して渡村となり、さらに圷渡村(76戸/天保年間)
| | 台渡村(だいわたりむら) 現在の渡里町・文京一丁目
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と台渡村(52戸)に分村する。
| | と二丁目・袴塚三丁目
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その後、天保十三年に合併して渡里村となる。
| | 那珂川の右岸に位置し、上市台地の西の端にあり、東側・
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明治十五年に堀村(76戸)と連合村「渡里村」となり、明治十七年
| | 北側は急傾斜の山林に境され、西は堀村、東は圷渡村。北
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には田野村(84戸)を加えて連合村「堀村」と変わる。
| | 部の低地を田野川が東流し、飯富村の境で那珂川に注ぐ。
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明治二十二年には再度、市町村制で統廃合され「渡里村」となる。
| | 那須街道が村の南部を東南から北西に貫く。
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昭和三十年四月一日の水戸市合併で大字を廃止し、町名を渡里町、
| | 徳輪寺遺跡・アラヤ遺跡・長者山政庁跡などの遺跡の存在
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堀町、田野町と改めた。
| | や土器の出土などから、古くから生活が営まれた地域であ
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<渡里地区の今昔> | | ることがわかる。「万葉集」巻九に「那珂郡曝井歌一首」
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昭和34年7月1日現在の戸数 令和02年11月01日現在
| | と題して
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渡里町 703 総人口 14.354人
| | 三栗の那珂に向かへる曝井の絶えず通はむそこに妻もが
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堀 町 465 世帯数 7.527戸
| | という歌があり、「常陸国風土記」の那賀郡の項には「郡
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田野町 118 町内会 68
| | より東北のかた、粟河を挾みて駅家を置く。其より南に当
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合 計 1286
| | りて、泉、坂の中に出づ。多に流れて尤清く、曝井と謂ふ
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<渡里村の小字名一覧(明治22年当時)> | | 。泉に縁りて居める村落の婦女、夏の月に会集ひて布を浣 |
わせぎ しもあらた | かみあらた もんぜん | | ひ、曝し乾せり」と記される。この曝井の所在については
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上 杉 下荒田 | 上荒田 門 前 | | 袴塚村の滝坂(現愛宕町)、当村の小岩井坂のいずれかと
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しものうち あらぬま | えがわむこう えがわ | | みられるが、この二カ所は距離的にも近く、ともに中河内
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下ノ内 アラ沼 | 江川向 江 川 | | 渡に向かう交通路にあたる。そのうえ台地の端で湧水も多
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しもふしき かみふしき | しもすぎ あしばたけ | | く、古代人々の生活が繰り広げられた所と考えられる。ま
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下伏木 上伏木 | 下 杉 芦 畑 | | た一盛長者の伝説もあり、この地が交通の要路として繁栄
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えのきど かみがわら | しもがわら おうかんむこう | | したことが推察される。
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榎 戸 上河原 | 下河原 往還向 | |
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とせんば しらはたやま | はちまんがわら しんがわら | | <圷渡村詳細> |
渡船場 白籏山 | 八幡河原 新河原 | | 圷渡村(あくつわたりむら) 現在の渡里町・文京一丁
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なかばな あらち | いなりみや あしやま | | 目と二丁目・ちとせ二丁目
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中 塙 新 地 | 稲荷宮 芦 山 | | 水戸城下の西北に位置し、屈曲して流れる那珂川の南岸に
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しもひさや しゅく | とざき ろくたんだ | | ある。台地の北端から急坂を、下った那珂川流域の低地を
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下久弥 宿 | 戸 崎 六反田 | | 主とする村。南は袴塚村。
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くねづま えだうち | えぞえ うつきざき | | 古代那賀の郡衙が台渡に、駅家が那珂川対岸の中河内・上
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久弥妻 枝 内 | 江 添 ウツキザキ | | 河内方面に設けられたと推定され、当村が那珂川を渡る交
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つぶじり えんじゅした | かんだ どうのうち | | 通の要衝であったことから、渡の地名となったと伝える。
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粒 尻 槐 下 | 神 田 洞ノ内 | | 元禄郷帳に「圷渡村」とみえる。「水府志料」の圷渡村の
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どうのした なかた | はちまんした ひきち | | 項によると村の東西十九町余・南北十六町余で戸数はおよ
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洞ノ下 仲 田 | 八幡下 曳 地 | | そ七六とあり、また「此村土人の伝説に往昔台渡村と共に
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はざま よこまくら | そりまち なかひらした | | 袴塚村よりわかれて渡り村と称す。後また台圷をわけて二
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狹 間 横 枕 | 反 町 仲平下 | | ケ村とすと云ふ。然れども其証たしかなる物なく、其年月
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かみいしい みそうざく | みたんだ ふじきした | | をしらず」とみえ、古来台渡村と密接な関係があったと思
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上石井 ミソウ作 | 三反田 藤木下 | | われる。
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しちこくだ みたらし | みやした かみごたんだ | | 笠原神社の祭神は日本武尊・弟橘姫命。古くは笠原明神
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七石田 ミタラシ | 宮 下 上五反田 | | と称した。旧村社。
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しもごたんだ あかいじり | しもぬま いしぼっく | | 天保十三年(1842)台渡村と合併し渡里村となった。
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下五反田 赤井尻 | 下 沼 石ボック | | <堀 村詳細> |
こいわい のだけ | ざるやま たちっぱら | | 堀村(ほりむら) 現在の堀町・新原一・二丁目・石川
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小岩井 野 竹 | 笊 山 立 原 | | 一・四丁目
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たゆうくぼ こやまのうえ | こやま ふじやま | | 水戸城下の西に位置し、那須街道の南側にある。村の北東
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大夫久保 小山ノ上 | 小 山 藤 山 | | 部は上市台地の西端にあたり、西南に向かって徐々に低地
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はちまんまえ ねんぶつくぼ | みなみまえはら しんでんあと | | となる。北は田野・飯富・台渡里三村。
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八幡前 念仏久保 | 南前原 新田後 | | 古くは全隈郷に属し、江戸氏の支配下にあった。「水府
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たぬきくぼ まえはら | やじか あらやまえ | | 地理温故録」の水門町の項に「江戸家に仕へし輩」として
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狸久保 前 原 | ヤジカ アラヤ前 | | 「堀村の館主篠原和泉守」の名がみえ、同書の「藤柄並松
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しゅくやしき かみひきち | あらや ちょうじゃやま | | の事」の項には「此地は江戸氏滅却之時〜江戸家之属臣篠
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宿屋敷 上曳地 | アラヤ 長者山 | | 原氏谷田部某等、其外大勢打死せし地なり」とみえる。正
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かなざわ こうやだい | のぎ まつきした | | 保三年の村替で宍戸藩領から水戸藩領になり、元禄郷帳に
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金 沢 高野台 | 野 木 松木下 | | 「堀村」とある。
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ぬま そでぬま | なかじま かわら | | 吉田神社は創建年不詳。初め正八幡宮であったが、元禄
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沼 袖 沼 | 中 島 河 原 | | 九年徳川光圀の命で日本武尊を祀り、吉田神社と改称した
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ちょうじゃやました | | | 。旧村社。
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長者山下 | | | <田野村詳細> |
| | | 田野村(たのむら) 上市台地の西北方に位置し、緩や
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「 堀 」小字名一覧表(明治22年当時) | | かな起伏のある丘陵地帯にあり、村の北部を田野川が東流
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「田 野」小字名一覧表( 同 上 ) | | する。南は開江村。古士巻遺跡・仲根縄文遺跡・仲根弥生
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| | 遺跡・仲根土師遺跡・三つ児塚古墳群・後山田遺跡・山田
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昭和三十年四月一日の水戸市合併で大字を廃止により、小字も使われ | | 古墳群・田野台遺跡など多くの遺跡があり、古くから生活
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なくなっていった。小字は土地のあだ名であるから、それを知ること | | が営まれていたことがわかる。正保三年の村替で宍戸藩領
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は土地そのものを確認することであり、地域社会の問題点を整理し、 | | から水戸藩領となり、元禄郷帳に「田野村」とみえる。
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人々の連帯感を取りもどすことにもなるからである。 | | 鹿島神社は応永八年鹿島の本宮より遷祀。元禄一二年徳
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編 集 茨城県歴史地理の会代表 江原 忠昭 | | 川光圀の命で村内野崎の八竜神社を合祀、社領三石余を有
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発行者 水戸市長 和田祐之介 | | した。旧村社。
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水戸の町名 ー地理と歴史ー 昭和57年3月10日発行より抜粋 | | (平凡社 日本歴史大系8 茨城県の地名より抜粋)
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<渡里地区コミュニティプラン> |
<―盛長者の伝説> |
 | 長者山に一盛長者と呼ばれた豊かな豪族が住んでいました。後三年の役にあたり、源義易( |
八幡太郎)が十万余騎の兵をひきいてここを通り、長者に兵糧を求めたところ、長者は義家を |
家に迎え入れ、三日三晩にわたって大変なもてなしをしました。義家が奥州よりの帰途、再び |
この地を通りかかった時にも前にも劣らぬ長者の歓待をうけました。義家は、「このような富 |
豪は、他日必ず災いになる」と考え、急にやかたを襲って長者の一族を討ち減ぼしてしまいま |
した。 |
(―盛長者伝説石碑) | (昭和62年10月31日(土)於水戸市立博物館 配布資料より抜粋) |
<台渡里廃寺跡> |
 | 台渡里廃寺跡は、水戸市渡里町の那珂川右岸の標高32mほどの平坦な台地上に位置してい |
ます。昭和14年から昭和19年まで高井悌二郎氏によって、また昭和45年から昭和47年 |
まで水戸市教育委員会によって発掘調査が行われました。昭和20年には県指定史跡となりま |
した。当遺跡は三地区に分けられ、それぞれの地区に建物群跡がみつかっています。これらの |
建物群は、建てられた時期や性格が少しずつ異なっています。南方地区と観青堂山地区の建物 |
群は、同時期に同一意識の下に建てられています。南方地区には、塔跡や金堂跡があり、観音 |
(県指定史跡の表示板) | 堂山地区では「徳輪寺」とヘラ書きされた文字瓦や「仲寺」と墨書きされた土器がみつかって |
 | います。この二地区は最初に郡領の私寺として建てられ、やがて郡の寺へと変わっていつた台 |
渡里廃寺の寺域と考えられています。長者山地区は、他の二地区より時期がおくれて建てられ |
ています。ここは、寺院ではなく他の性格をもつ建物群(郡衙とか河内駅家)だと考えられて |
います。この様に台渡里廃寺の付近には、寺院以外にも公的建物群があったと考えられます。 |
しかし、これらの発掘調査範囲が限られ、発見された遺構も少ないので、寺院の範囲や伽藍配 |
配置などはすべて推定の域を出ていません。 |
(台渡里廃寺跡石碑) | (昭和62年10月31日(土)於水戸市立博物館 配布資料より抜粋) |
<台渡里官衙遺跡群> |
 | 台渡里官衙遺跡群が所在する本市の渡里地区は、通称「上市台地」と呼ばれる那珂川によつ |
て形成された河岸段丘上に位置し、南北方向に流れていた那珂川が渡里地区付近で緩やかに東 |
地区付近で緩やかに東の方向へ蛇行していく場所です。渡里という地名がいつ頃まで遡り得る |
のか定かではありませんが、渡河点との関わりが想定される地名です。上市台地の東側斜面か |
ら斜面下にかけては、愛宕町滝坂の曝井推定地に代表される湧水点が点在し、古くから居住に |
適した土地であったと考えられます。 |
(台渡里官衛遺跡掲示板) | 台渡里官衛遺跡は長者山地区・宿屋敷北地区・宿屋敷地区・南前原地区の4地区から構成さ |
 | れる遺跡で、現在、長者山地区が国史跡に指定されています。古墳時代終末期の集落は、台渡 |
里官衙遺跡(宿屋敷地区・南前原地区)において、多数確認されています。当地区は国指定史 |
跡台渡里官衙遺跡(長者山地区)の南東に位置する埋蔵文化財包蔵地で、集落遺跡と官衙遺跡 |
が複合しています。 |
平成6年度に都市計画道路3・3・30号線敷設に伴い実施された第8次調査では、7世紀 |
後半の竪穴建物4棟、区画溝4条等が検出されています。また、平成17年度に店舗建設に伴 |
(遺跡発掘現場写真01) | つて実施された第26次調査においては、竪穴建物8棟、立柱建物11棟等が検出されていま |
 | す。これらの調査で検出された堅穴建物の出土土器は、いずれも7世紀後半のもので、7世紀 |
後半に創建された台渡里廃寺跡や7世紀末から造営が開始された台渡里官衛遺跡(長者山地区 |
)の造営にかかわる集落の一部と考えられます。 |
また、平成20年度に実施した個人住宅建築に伴う第41次調査では、上面幅7mから6m |
、底面幅3.7m、深さ2.5mの逆台形の区画溝とそれに沿う形で9尺等間の柵列、さらに |
その内側から竪穴建物1棟が確認されています。区画溝の底面や埋土からは7世後半の土器が |
(遺跡発掘現場写真02) | 出土し、溝に埋まつていた土の堆積状況から外側に土塁があつたと考えられ、遺構のあり方か |
 | ら豪族居館である可能性が高いと推定されますが、7世紀後半の豪族居館はこれまで報告例が |
なく、年代から那賀郡の前身である役所跡である可能性も考えられます。 |
奈良・平安時代の遺構としては、正倉院に関連するとみられる遺構が多数確認されています |
。平成17年度に共同住宅建設に伴い実施された第24次調査においては、正倉とみられる礎 |
石建物1棟とそれを区画する溝1条やそれに先行するとみられる奈良時代の撃穴建物6棟が検 |
出されています。堅穴建物の1棟からは「備所」と墨書された8世紀後半の土器が出土し、区 |
(台渡里官衛遺跡瓦出土) | 画溝跡からは、10世紀後半から11世紀初頭頃の土器と炭化米が出土し、平安時代の後半ま |
 | で那賀郡衙が機能していた可能性があることが分かっています。 |
また、茨城大学の運動場地点において実施された第44次調査においても、正倉とみられる |
礎石建物2棟が確認され、正倉院の広がりが第24次調査地点のさらに西側へ展開しているこ |
とも分かっています。これらの調査では瓦がほとんど出土していないため、台渡里官衙遺跡( |
長者山地区)と比べて総瓦葺正倉の棟数は少なかったと考えられます。 |
平成25年4月11日(木)於台渡里公民館地元住民への説明会資料 |
(台渡里官衛遺跡瓦出土) | (水戸市台渡里官衙遺跡群保存管理計画(案)より抜粋) |